カケル カカワル ミチル キヅク


 


「誰かと出会うたび 

わたしという輪郭がはっきりしていく」 


なぜこの世には 

男と女がいるのでしょうか。 


生物学的には、

性の違いは命をつなぐ 

仕組みであると同時に 

ミトコンドリアという 

「生命のエネルギー」を 

安定させる役割も持っています。 


遺伝子を混ぜ、多様性を生みながら、 

母系の生命は次世代へ 

自分をしっかり伝えられるのです。 


また、ミトコンドリアと

核遺伝子は密接に強調しており

この協調適応が性分化や

オスとメスの存在にも

影響を与えた可能性が指摘されています。 


性の違いは、

生命を安定させるために

長い進化の過程、ミトコンドリアが 

生き残るための進化戦略とも

考えられているのです。


社会の中では 

男と女という区別は 

時代や文化によって 

意味を変えながら、 

家族の形や人間関係、 

価値観をつくってきました。 


でも、それだけでは 

何か少し足りない気がします。 


わたしたちは日常の中で、 

誰かに惹かれ、すれ違い、 

分かり合えなさに悩むことがあります。 


それは単に違うからではなく、 

違う存在と出会うことで 

自分自身が浮かび上がるからです。   


人は、ひとりでは 

自分が見えにくいと感じるから、

誰かを求めます。   


欠けて見えるのは、 

自分の見えている部分が 

まだ光を受けて 

いないだけかもしれません。 


満ちているように見える瞬間も、 

光の当たり方次第で、また欠けて見える。 


男女の違いは、 命を続けるための

仕組みであると同時に、 

他者と関わることで 

自分を知るためのきっかけでもあります。 


欠けているからこそ 

話そうとし、 分かろうとし、 

補おうとし、 ときには衝突します。 


男女は、 優劣の関係でも、 

対立する存在でもありません。 

違いがあるから、 関係が生まれます。 


その中でわたしたちは、 

自分の考え方や価値観、

弱さ、 大切にしたいものに 

気づいていきます。 


不完全であることは、 

弱さではありません。 

自分の弱さを受け容れることは

本当の意味での強さを育ててくれます。

関係の中で形を変え、 

見えていなかった部分に光が当たる。 

それこそが、人とつながる間です。   


完全に分かり合うことはできなくても、 

分かろうとし続けることはできます。 

欠けている部分も、 光の当たり方次第で 

満ちたように見える瞬間があるのです。 


男女が存在する理由に 

ひとつの正解はないのかもしれません。 


けれど、 

違う存在と出会い、 

悩み、考え、笑い、喜ぶ 

少しずつ自分を知っていく。 


その経験をするために 

人は最初から 

分かれた存在として 

生きているのではないでしょうか。



・・・ ・・・ ・・・ ・・・



すべての見えるものは 

見えないものにさわっている 


すべての聞こえるものは 

聞こえないものにさわっている 


すべての感じられるものは 

感じられないものにさわっている 


おそらく考えられるものは 

考えられないものにさわっているのだろう 


 —ノヴァーリス「光にかんする断章」より 



・・・ ・・・ ・・・ ・・・



欠けても、満ちても、 
そのすべての見え方が 
わたしたちの関係を照らすように。


男と女、自己と他者、光と影。
すべては分離として現れます。


けれどその分離は、断絶ではなく
再び還るために与えられた距離。


愛すること、結ばれること
理解しようとすることは
個と個が溶け合う体験であり
同時に宇宙と響き合う
体験なのかもしれません。


男女が存在するのは
宇宙が自らを知るために
一度、分かれる必要があったから。


違いをうけとめたまま
ひとつであると知ること。


そして、わたちたちは
そのプロセスを生きることで
宇宙が「自分とは何か」を知る瞬間を
ともに体験している。


わたしたちは
そんな壮大な物語の一部を
いま、生きているのかもしれません。



ドロシー

はっぴぃのたね

自然という自分に還る セルフケアリトリート® あわただしい日々に置き去りにした 内なるの声に耳をすます 「する」ことを手放し ただ「かんじる」時間 自分という自然と自然という自分が そっと重なりあうとき すこやかさがふわりと戻ってくる ここは自然と自分の調和する場所